ヨハン・ゼバスティアン・バッハ - 横浜市緑区のピアノ教室 | 明るく楽しい♪福田音楽教室♪ -

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ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

りえ先生の楽しいピアノ」に登場した、音楽の歴史に名を残した偉大な人物たちをご紹介しているページです。

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ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (Johann Sebastian Bach 1685年〜1750年)

音楽の父」として、誰もが知っているヨハン・ゼバスティアン・バッハさんは、偉大な音楽家の一族に生まれました。
バッハ家は250年にもわたり、数々の音楽家たちを輩出しています。
そのためバッハと名のつく音楽家は大変多くいるので、ここで取り上げるバッハのことを、J.S.バッハと言ったり、その偉大な業績をたたえて大バッハと言ったりします。

このページでは単に「バッハさん」としておきます。

◆誕生〜少年時代

ヨハン・アンブロジウス・バッハ

父ヨハン・アンブロジウス・バッハ

※この画像はパブリックドメインです。

ヨハン・クリストフ・バッハ

伯父ヨハン・クリストフ・バッハ

※この画像はパブリックドメインです。


さて偉大なバッハさんは、1685年3月21日(ユリウス暦)にドイツはアイゼナハという町で、8人兄弟(息子6人、娘2人)の末っ子として産声をあげました。

お父さんはアイゼナハの音楽家(宮廷楽師兼町楽師)でヴァイオリン奏者のヨハン・アンブロジウス・バッハ(1645-1695)さん。
お母さんはエールフルトの市参事会員の娘エリーザベト(Maria Elisabetha La"mmerhirt)さんです。

父アンブロジウスさんは、主に教会での礼拝音楽でヴァイオリン奏者を務め、その演奏技術は人々から高く評価されていたそうです。

また父アンブロジウスさんの従兄弟(いとこ)にヨハン・クリストフ・バッハ(1642-1703)という方がいます。
このヨハン・クリストフさんは、本稿のバッハさん以外の中では一番成功し有名になった音楽家です。
アイゼナハでゲオルク教会のオルガニストとして活躍し、宮廷オーケストラのチェンバリストまで務め、オルガン曲や合唱曲を作曲しました。
バッハさん作曲とされている曲の中にも、この伯父ヨハン・クリストフさん作曲の作品が混ざっているのではないか、とも言われています。

バッハ少年は、父と偉大な伯父からヴァイオリンやオルガン、音楽に関するあらゆることを教わっていたのかもしれませんね。

さて2歳でゲオルク教会で洗礼を受けたバッハ少年は、7歳になると教会付属のラテン語学校に入学します。
同時期に合唱団にも参加していたためか、学校の出席率は悪かったそうですが、成績はとっても優秀で、3歳年上の兄と同じ学年に飛び級までしていたほどでした。

◆長兄のもとで

すくすくと育つバッハ少年でしたが、9歳の時、早くも人生の試練をむかえます。

1694年の春、母エリーザベトさんを亡くし、さらに翌年2月、父アンブロジウスさんも他界してしまいます。

いきなり人生の重大な岐路に立ったバッハ少年。
このとき、偉大な伯父ヨハン・クリストフが引き取るかと思われましたが、なんと伯父は借金まみれの極貧生活で、とてもバッハ少年の面倒を見ることができなかったのです。
なんてことでしょうか!
音楽家として成功していても、経済的には大貧困だなんて。。。

結局、すぐ上の兄ヨハン・ヤーコプさん(1682-1722)と一緒に、一番上のお兄さんヨハン・クリストフさん(1671-1721)のところに引き取られていきます。
(似たような名前が多くて、混乱しますね。)

ヨハン・パッヘルベル

ヨハン・パッヘルベル

※この画像はパブリックドメインです。

この長兄ヨハン・クリストフさんとバッハ少年は14歳も年が離れていて、既にオールドルフでオルガニストとして活躍していました。
まだ小さかった6〜7歳頃、当時アイゼナハの宮廷オルガニストであったヨハン・パッヘルベルさん(1653-1706)に教えを受けていた長兄ヨハン・クリストフさんは、一足早く音楽家としてデビューしていたのです。

パッヘルベルさんとは、あの有名な『パッヘルベルのカノン』のパッヘルベルさんです。



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パッヘルベルのカノン
ヨハン・パッヘルベルが1680年頃に作曲した最も有名かつ、一般的に知られる唯一の曲。 “カノン”とは、先行する旋律を奏でる声部を、後続の声部が模倣し追行するだけでなく、違う音で始まったり、リズムや時間が異なるものも含まれる輪唱。


この長兄から音楽的教育を受け、順調に成長していくバッハ少年でしたが、しかし、どうしても気になることがありました。
それは長兄が所有していた、ドイツの有名作曲家たちのクラヴィーアやオルガンの楽譜集だったのです。
何度も長兄に見せてくれるように頼むのですが、「まだお前には早い」といって頑として見せてくれません。
想いが高じてしまったバッハ少年は、毎日夜中にこっそり楽譜を持ち出し、半年もの間、月明かりの下でせっせと写筆し続けたのです。
しかし結局長兄に見つかってしまい、苦労して写した楽譜は取り上げられてしまいました。

このとき、月明かりの下で目を酷使したのが、晩年になって失明するまでに目が悪化する原因となったのです。

◆一人立ち〜オルガンへの興味

15歳の誕生日を目前に控えた1700年3月15日、バッハ少年は友人と一緒にドイツ北部の都市リューネブルクへと向かいます。

兄のもとを離れ、一人立ちしなければならない時期になったのです。

リューネブルクにある聖ミカエル教会で聖歌隊のソプラノ歌手として働きながら、その付属高等中学校で給費生として学業に励むバッハ少年。
美しいボーイ・ソプラノで実力を発揮し始めましたが、やがて声変わりを迎えることになってしまい、聖歌隊歌手としては役に立たなくなってしまいます。

しかしそのことが、オルガンという楽器へと興味が移るキッカケとなったのです。

リューネブルクのヨハネ教会にゲオルク・ベーム(1661-1733)さんという、たいへん優れたオルガニスト兼鍵盤楽器作曲家がいて、バッハ少年は、非常に影響を受けたと言われています。

ヨハン・アダム・ラインケン

ヨハン・アダム・ラインケン

※この画像はパブリックドメインです。

またリューネブルクのすぐ北方には、北ドイツ最大の都市で音楽文化も盛んなハンブルクがあり、そこの聖カタリーナ教会のオルガニストでオルガン音楽の大家ヨハン・アダム・ラインケン(1643-1722)さんの演奏を聴きオルガン芸術に触れたり、オペラを見たりといった貴重な体験を重ねていきます。


from YouTube

組曲ト長調』(?)
ヨハン・アダム・ラインケンによる鍵盤楽曲です。



さらにリューネブルクの南にあるツェレは、領主のお后様がフランス人ということもあり、フランス音楽が大変盛んなところでした。
そこでバッハ少年は、フランス音楽も吸収しています。

このようにリューネブルク時代のバッハ少年は、どんどん音楽的教養を高めていったのでした。

◆就活時代

1702年、ザンガーハウゼンのヤコブ教会のオルガニストに応募しましたが、失敗。

続いて1703年春。
18歳のバッハさんは、アイゼナッハの東にあるテューリンゲン州の中心都市であるヴァイマルの宮廷楽団に、ヴァイオリンとヴィオラ奏者として就職します。

わずか半年ほどでしたが、しかしヴァイオリンの重音奏法で有名なヨハン・パウル・フォン・ヴェストホフ(1656-1705)さんと出会い、後の作曲に影響を受けています。

その年の8月。
アルンシュタットに新しく再建された「新教会」に、オルガニストとして勤めることになりました。
このアルンシュタットという町はバッハ一族にとってゆかりの地で、宮廷と聖母教会のオルガン奏者で、バッハさんのお爺さんの弟にあたるハインリッヒ・バッハ(1615-1692)さんがこの地を拠点に活動しました。
そのハインリッヒ・バッハさんからの家系を「アルンシュタット系」とすら呼んでいます。

おそらくその「アルンシュタット系バッハ家」の強い働きかけがあったことで、この新教会のオルガニストに正式辞令をもらって就任したのです。
専任のオルガニストになったことで、自由に楽器を使えるようになったことに大変喜ぶバッハ青年。聖歌隊の指導と指揮も任されています。
新教会の仕事はそれほど忙しくはなかったようで、バッハ青年は自分の腕を磨くことに時間を費やしていくのですが、そのことがちょっとした“事件”をもたらします。

ディートリヒ・ブクステフーデ

ディートリヒ・ブクステフーデ

※この画像はパブリックドメインです。

1705年10月。
バッハ青年は4週間の約束で休暇を取り、北ドイツのリューベックという町に旅行に出かけます。
目的は、聖マリア教会のオルガニストディートリヒ・ブクステフーデ(1637-1707)さんの音楽を学ぶためです。
ブクステフーデさんは既に老境でしたが、当時は大変な人気で、オルガニスト&作曲家として華々しい活躍をしていたのです。
ブクステフーデさん主催の「夕べの音楽」と呼ばれる無料コンサートを聴きに、多くの人たちがこのリューベックへやって来ました。

その中には作曲家ヨハン・マッテゾン(1681-1764)さんや、その大親友で「音楽の母」として世に知られる作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685-1759)さんもいました。

もちろんバッハ青年もそのひとりだったわけですが、アルンシュタットから400km近く離れているリューベックまで、なんと徒歩で向かったと言いますから、驚きです!!

非常に情熱的で幻想的なブクステフーデさんの演奏を聴き、バッハ青年は完全に虜になってしまいます。
ブクステフーデさんのもとで音楽を学び、特にオルガンの作曲にとても強い影響を受けていきます。


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イエスは我が生命の生命(Jesu, meines Lebens Leben)』
ディートリヒ・ブクステフーデによる宗教声楽曲です。


当のブクステフーデさん自身もバッハ青年の類まれな才能を認め、もうすぐこの世を去るであろう自分の後継者、つまりリューベックの聖マリア教会のオルガニストの座に指名しようとしました。
聖マリア教会の大オルガンの評判は高く、北ドイツの音楽家たちにとって、そこのオルガニストになるということは、非常に重要なポストだと考えられていました。
才能を認められたとはいえ、当時のバッハ青年にとっては、まさに高嶺の花、すぐにでも飛びつきたいような話です。

しかし、なんとバッハ青年は断ります。
実は「ブクステフーデさんの三十路の令嬢と結婚すること」が、後継者の条件だったのです。
この“三十路のご令嬢”が、どのような女性であったのかはわかりませんが、バッハ青年はもちろん、先のヘンデル青年も、同じ条件で後継者に誘われ、そして同じように断っています。

さて、学び多きリューベックでのひと時も、気がつけば約束の4週間はとっくに過ぎており、すでに3ヶ月以上が経過していました。
バッハ青年は無断で休暇を延長してしまっていたのです。
もちろんアルンシュタットに戻ると、教会当局から大問題にされてしまいます。
無断で休暇を延長したばかりではなく、その間も含め、聖歌隊の指導も疎かにしていたことも問題にされ、責められます。

さらにさらに、1706年11月には当時女人禁制であった教会のオルガン席で、女性に歌を歌わせたことでも、教会当局から叱責を受けてしまいます。
この女性、将来バッハさんと結婚することになるマリア・バルバラ・バッハ(1684-1720)さんではないかと言われています。

この時期にバッハ青年が作曲したのが、有名な『トッカータとフーガニ短調』です。
この曲にブクステフーデさんの影響が出ている、とする見解もあるそうです。


from YouTube

トッカータとフーガニ短調
バッハのオルガン曲の中でも人気の高い作品。ブクステフーデの影響があると言われる一方、自筆譜が現存しなかったり、他の作品には見られない特徴があるなどの理由で、偽作説もある。


まあ、そんなこんなでアルンシュタットの教会には居づらくなったからなのでしょうか、バッハ青年は新しい職場を求めていくのでした・・・。

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